こんぶ土居店主のブログ

こんぶ土居店主によるブログです。お役に立てれば。

今更に『日本昆布協会』に入会の理由

私の曽祖父が1903年に始めた昆布屋も、今年で122年目です。

歴史ある昆布業界の中でも新しい方では無く、どちらかと言えば少しは古参の部類でしょうか。

しかしこれまで、所謂「業界団体」には深く関わってきませんでした。

例えば、日本の昆布業者が集まる全国組織「日本昆布協会」。

kombu.or.jp

この日本昆布協会にも入っていなかったわけですが、本年2025年、今更ながら入会させていただくことになりました。

本日の投稿では、その理由についてご説明するものです。

 

結論から申し上げますと、現在様々な問題を抱える「北海道の昆布生産現場の再生のため」ということになるのですが。

北海道の昆布生産の再生と業界団体への入会が、どのように関係しているのか、それを以下に具体的に記します。

段落としましては、

 

【これまでの私の取り組みと経過】

【連携不足の現状】

【私の自負、それでもまだまだ】

【業界団体の今】

【組織、地域を超えた大きな連携を】

 

といった感じで書いて参ります。

ではまず最初の段落から。

 

 

【これまでの私の取り組みと経過】

このブログでも何度も何度も書いてきておりますように、天然真昆布は10年来常態化した大凶作が続き、過去にない危機的状況にあります。

他の品種の昆布については、そこまででは無いものの、徐々に悪化してきている傾向は同じです。

こういった状況を何とか改善できないかと、私はずっと活動してきました。

 

多くの方に会って現状を分析し、天然真昆布復活の道を模索してきたわけです。

とは言え私は産地である北海道から遠く離れた大阪の昆布屋。

実際に問題解決の取り組みをして下さるのは現場の方々です。

まずは最前線におられる昆布漁師さんと、その集まりである漁業協同組合。

そして、問題を科学的に分析するために研究者の活躍も大切ですが、そちらは函館にある北海道大学水産学部の先生方や、水産試験場の研究員の方々など。

そして、それらをバックアップするのは行政の仕事ですが、函館市役所の水産課が強く関係しています。

 

これらの関係各所とも何度も顔を合わせて相談し、問題解決を模索してきました。

しかし、この道が険しいのです。

現在のところ、『復活の未来』まで明確に道筋が描けているかと言えばそんなことはありませんで、残念ながら「たいした成果は挙がっていない」という現状です。

様々な障壁によって行き詰ることが多いのですが、それには通底する理由があります。

 

 

 

【連携不足の現状】

先に挙げた「現場」「研究者」「行政」。

どちらも問題意識は共通で、頑張って取り組んでくださっています。

しかし私がこれまで見てきた中で足りないものがあるとするならば、それは「連携」でしょうか。

 

昆布生産の過去を振り返ると、違った立場の方々が連携して物事を進めていく必要性が、特に強くなかったのだと感じています。

それは「問題なく回っていたから」に他なりません。

天然真昆布もたくさん生えている、漁業者も多い、そんな時代は恵まれたもので、新しい動きをしなくても継続できたわけです。

つまり、「現場の漁師さん方が、研究者に期待することも特にない」、「行政との連携もさほど必要としていない」、というような状況であったかと。

そんな状態が昔から長らく続いてきたのだとすれば、立場を超えた「連携」の素地が無いのも当然でしょう。

 

私は過去投稿で、ある漁師さんについて触れ、昭和40年代に日本で初めて昆布養殖が実現した背景について書いています。

konbudoi4th.hatenablog.com

この日本初の偉業も、北海道区水産研究所で昆布の研究をしておられた長谷川由雄さんが基礎研究を担い、川汲浜の昆布漁師であった吉村捨良さんが現場実装への道筋をつくる、役割分担の協業によって成し得たものでした。

互いの敬意と信頼を元に「連携」して進め、成果を挙げたことは、注目するべきモデルケースです。

 

 

連携の不足は、立場の違いだけでなく、空間的な意味でも同じです。

所謂「磯焼け問題」は、日本中、いや世界中で同じ悩みを抱えているわけです。

しかし様々な取り組みは、行政単位、漁協単位で行われることが多く、横の情報共有も少ないように見えます。

例えば、古来より最上級だとされてきた白口浜真昆布であれば、函館市に近い「大船」「臼尻」「安浦」「川汲」「尾札部」「木直」の6浜は「南かやべ漁業協同組合」の管轄です。

しかし、その北西に隣接する「鹿部浜」は、「鹿部漁業協同組合」となり別組織で、独立した運営を行っています。

これは行政区域としても同じで、前者は函館市、後者は鹿部町であり、分かれているわけです。

同じ問題を抱え、同じ目的に向かって進むのに、協業が不十分であるとすれば本当にもったいないことです。

 

 

 

【私の自負、それでもまだまだ】

昆布の生産の最前線にいるのは漁師さん方であるわけですから、「漁師さん方から頼りにされる研究者」、「漁師さん方から信頼され、頼りにされる行政」であれば素晴らしいわけで、「協業」が生まれやすいでしょう。

その信頼の基礎になるのは、「深く現場を理解する」ことではないでしょうか。

例えば、前段で書いた日本初の養殖真昆布の礎となった長谷川由雄さん。

研究者でありながら常に海に出て、現場で漁師さんと共に考える方であったようです。

パートナーとなった昆布漁師の吉村捨良さんも、そういった研究者だからこそ信頼して進められたのではないかと想像しています。

 

現場の漁師さん方とお話していて感じることとして、当然ですが「机上の空論」を嫌うのです。

ちょっと苦言になってしまいますが、水産の研究者であれば、研究室での仕事と共に、できるだけ多く現場に出て欲しいと思っています。

しかし海藻の研究者であっても、船舶免許もダイビングのライセンスも所持していなかったり。

研究室での成果によって学問的に大成される方は素晴らしいのですが、やはり「天然昆布の復活」といったテーマには、「現場主義」も同時に大切だと思うのです。

これは行政関係者でも全く同じことです。

 

 

「現場主義」について、手前味噌で誠に恐縮ながら自分の事を書きますと。

私は平成16年から昆布漁師さんの舟に同乗し仕事を手伝ってきましたから、現場の理解が無いわけではありません。

個人的に海が好きだということもあり、一級船舶免許やダイビングのライセンス(Advanced Open Water Diver)も持っています。

過去には漁協の協力の元、自ら海に素潜りで入って大阪昆布ミュージアムに展示するための岩に着生した天然昆布サンプルを採ったりしました。

また、漁場環境の改善のために、三代目の時代から20年以上に亘って、産地の小学校で食育授業を続けるなど、次世代の育成にも関わってきました。

 

そして同時に、問題解決のために動き続けてきた中で、行政や研究者の方々とのパイプも太くなりました。

つまり私の自負としては、北海道の「現場」「行政」「研究」の、どの分野にも関わってきたことです。

 

そして本業である大阪の昆布屋の仕事では、流通、加工、小売りという場を担っています。

日々、昆布を自分の目で見続けて選別、良し悪しを見極め、加工の現場にも入って作業します。

店頭に出て接客していることもありますから、エンドユーザーとも直接に触れています。

こんなブログを書いたりして、情報発信にも努めています。

つまり、最も上流の昆布生産の現場から消費の現場まで全てを見ているわけですが、こういったタイプの人間はあまり多くないのかも知れません。

 

そしていつからか私は、昆布屋として大阪を拠点にしながら北海道の生産現場へ貢献できることがあるとすれば、様々な現場に触れているからこそできる「連携」のお手伝いではないかと考えるようになりました。



youtu.be

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【業界団体の今】

これまで失礼ながら、私共にとっての昆布の業界団体は、「果たすべき役割もあまり無い」、「入っていてもメリットもあまり無い」という感じでありました。

これは日本昆布協会に限ったことでないのですが、業界団体は一般的に、同業者間の「親睦の会」的になりがちです。

もちろん、問題解決への動きも無くはないのですが、昔からの会のルーティーンをこなすことが主になってきたり。

言葉を選ばずに言えば、未来に向けた建設的な議論が少ないと感じてきました。

これが、私が業界活動に消極的だった理由です。

 

この背景を考えると、「全体として、特に大きな問題を抱えていない時代が長かった」ということも無関係ではないでしょう。

前段で生産現場の関係各所の連携が薄いことを書きましたが、これは本州の加工流通業者とて同じでした。

業界団体は存在しても、立場は会員それぞれで違い、取り組むべき課題もそれぞれ。

それ故に一丸となって何かの問題に取り組むことが希薄だったのだと思います。

 

しかし、今は根本的に状況が変わってしまいました。

環境悪化によって天然昆布の資源が枯渇し、一次生産者人口の減少によって労働力も足りず、昆布の生産量は減少の一途です。

当たり前のことですが、昆布業者が営業を続けるためには、昆布漁業が存在していることが絶対条件です。

今は「すべて」の昆布関連業者が、産地の漁業不振という「同一の」大問題に困っているわけですから、この逆境の改善に今ほど業界一丸となって挑めるタイミングは無いように思うのです。

 

そして実は今、日本昆布協会の財源は、過去に比べて恵まれた状態にありまして。

これは、昆布の生産量が激減したことによって需要が満たせず、それを理由に海外から大量に輸入したこと関係しています。

昆布漁業の不振でこういったことになる場合もあるので、皮肉なものです。

ここで大切なのは、「そのお金を、日本の昆布漁業の未来ために適切に活用する」ということです。

私が日本昆布協会に入会してやりたいことは、正にこれです。

使えるお金がまだある今、業界一丸となって『産地を応援するような取り組み』ができないものか、ということです。

 

 

 

【組織、地域を超えた大きな連携を】

以上が、「日本昆布協会」に入会させていただいた動機です。

私が天然真昆布の大凶作を受けて「これは只事では無い!」と活動し始めた頃には、まだまだ問題の深刻さがさほど認識されていない時代でした。

今では多くの方々が理解して下さるようになりましたが、活動する中で痛感するのは、当たり前ですが「少しでも輪を広げる必要がある」ということです。

昆布漁業の不振の理由を考えると、それは環境破壊であったり、一次産業の産業構造の問題であったり、つまりこれは社会の縮図なのです。

 

昆布を復活させることは意義としても非常に大きく、温暖化対策としてのブルーカーボン観点であったり、「食」のジャンルに留まらない世界からの関心が海藻へ注がれる未来が必ず来ます。

つまりもうこれは、「オールジャパン」で挑むべき事柄なのです。

であれば当然に、真っ先に北海道の昆布によって事業を続けてきた昆布業界が、産地振興のために立ち上がるべきでしょう。

日本昆布協会も既に動き出してくださっているのですが、私が貢献できることも必ずあると思うので、追い風を吹かせたいです。

業界を大きく巻き込んで産地を支援する計画、さてさてスムーズに進むのでしょうか。

だいたい3年から5年で何か成果が見えてくれば嬉しいと思いますが、どうなりますか。

後日談は、またいつかこのブログで書かせて頂ければと考えています。

 

(了)

 

文化のためにローカルな存在でいたい

「Think Globally, Act Locally」という言葉があるそうですね。

今や、世界中から本当に多くの方が日本へ来る時代になり、日本文化への理解も日に日に進んで来ているように思います。

しかし日本の伝統文化は衰退している分野ばかりです。

世界で評価される素晴らしいものが、そんな現状ですからなんとももったいないこと。

私の仕事を考えても、昆布文化は急速に衰退してきています。

konbudoi4th.hatenablog.com

 

足元にあるもののがありふれているが故に、その真の価値に気づかず軽視してしまう構図は、多くの国や地方が抱えている問題なのかも知れません。

それはつまり今は「世界を見て学ぶこと」が足りず、同時に「ローカルな何かを大切にする姿勢」が足りないということであって、「Think Globally, Act Locally」は、その問題意識を上手に表現した言葉なのでしょう。

 

【Act Locally】

まずローカルであるということは、言い換えれば「地域独自性」です。

更に言えば「地域文化」です。

それが、日本全体で衰えているわけですが、例えば、『衣食住』という言葉がありますが、和服を着て生活する人がほぼいない、日本の伝統建築に住む人が少数派、昆布ダシなど取ったことがない、といったことでしょう。

 

それぞれの地方に目を移せば、国道沿いを車で走って目にする景色は、どの地方でもほぼ同じ。

全国展開のチェーン店が並ぶ景色の違和感を感じた方も少なくないと思います。

食の世界でも、地域の素晴らしい独自食文化が衰退している事例が多いようですね。

 

ついでに申しますと、私は大阪人ですが、最近では大阪弁しゃべれない子供が増えているとか。いやはや。

 

 

【Think Globally】

【Act Locally】で書きました残念な日本の現状。

その原因を考えたとき、【Think Globally】つまり「外部からの視点」が足りないからではないかとも思います。

灯台下暗し」と、先人はよく言ったもので、当たり前に存在している物の価値が軽視されるのは、仕方のないことなのかも知れません。

 

◇広い見分が足りないことで、外の世界の優れた点への理解が足りないと同時に、内部の劣った点への理解が足りず、改善の動きが弱い。

広い見分が足りないことで、内部に存在する特殊な価値に気づかず、軽視してしまう。

 

こういったことがあるとすれば、それは本当の意味で【Think Globally】ができていないということでしょう。

外部からの視点を以て初めて、ローカルの良さも悪さも理解できるのでしょう。

 

例えば、こんぶ土居がある大阪の「空堀」。

20年ほど前から、特殊な町おこしのムーブメントが起き、全国的にもモデルケースのように見られることも多い場所です。

戦争で一面が焼け野原になった大阪ですが、わずかに焼け残った地域があって、そのひとつである「空堀」。

それゆえに戦前からの街並みが残り、その魅力を察知した外部の方々が移り住んで特殊な雰囲気をつくりだしています。

しかし地元民である私には、子供の頃から慣れ親しんだ景色であり、ただの古臭い町にしか見えていませんでした。

これは正に、地元民である私の目が「灯台下暗し」であって、街並みを見る際に【Think Globally】ができていなかったということでしょう。

 

【こんぶ土居のローカル】

 

私共は昆布屋です。

零細な規模ではありますが、一事業体ですので、その価値を多くの方に知っていただき、たくさん製品を買っていただくことで存続できます。

その目的のために、例えば「支店を出したり」「取り扱いアイテムを増やしたり」「外部へ積極的に出て価値を伝える活動をしたり」。

そういった取り組みは、多くの企業が考えることでしょう。

 

しかし、こんぶ土居では、今後もずっと一店舗だけで営業を続ける予定です。

支店は出しません。

商品の卸販売はしていますから、他の地方の販売店さんでもお求めいただける物もありますが、本当を言えばこれもやめた方が良いのかも、などと考えることもあります。

 

取り扱いの昆布の種類についても、私共は言わば「品揃えの悪い昆布屋」です。

だし昆布として有名な羅臼昆布や利尻昆布を一切販売していないことが、それに当たります。

 

私が様々な場所へ出向いて活動することに対しても、昔に比べて消極的になりました。

 

 

①については、買って下さる方の利便性を高めるのは大切なことですが、逆の作用として「どこでも手に入る」となってしまうのなら、それは【Act Locally】では無いように思います。

②も、それぞれの品種の昆布にはそれぞれ適した用途があるわけですし、幅広い銘柄の昆布を取り扱うことは、ご利用いただく方にとって良いことかもしれません。

しかし、それは言ってみれば「のっぺらぼう」であって、古くからの大阪の昆布文化を表現したものだとは言えないでしょう。

③は、「私が出ていくこと」よりも「来ていただくこと」の方が大切ではないかと思うようになったからです。

私が東京へ出向いて大阪の昆布文化をご説明するのと、こんぶ土居が運営する「大阪昆布ミュージアム」へ来て頂いて、大阪の空気感と共にご理解いただくのとを比較すれば、やはり前者は中途半端なものになりがちだと思います。

 

一般的な企業活動の中で求められがちな「拡大」の動きは、言ってみれば【Act  Globally】であって、伝統文化を担うべきものにとっては適さない部分を多く含んでいるように思います。

その一方で、膠着した【Think Locally】になってしまうことなく、常に広い視野で物事を見て、自分の果たすべき役割をアップデートし続けることが求められるわけで、意外に難しいことかもしれません。

 

加えて申し上げると、天然真昆布の常態化した大不作に関しても、同じことが言えるように思います。

天然昆布の枯渇を受けて、多くの方はその原因を「地球温暖化」に見ます。

もちろんそれは無関係ではありません。

しかし、世界規模の問題である地球温暖化のせいにするのは、【浅い Think Globally】でしょう。

枯渇する天然真昆布の世界的な価値を知り、気温が上昇する中でもそれを持続させる方法が無いかを広い視野で考えることこそ【真の Think Globally】で、それを行動に移す【Act Locally】も同時に求められているわけです。

現状は、共に足りていないと思います。

 

 

私の仕事の意義をどこに設定するかを考えると、それはやはり「伝統文化を体現する者」としての役割が社会から求められるように思っています。

そういった「大阪のローカル」を突き詰めることが、私共のような零細業者の生きる道で、地元への貢献であるとも考えています。

【真の Think Globally】も【Act Locally】も、言うほど簡単なことではありませんが、そんな理想を体現できるように、考え方として自分の軸に設定しておきたいと思っています。

(了)

ジビエを食べて感じる、味を成分で語ることの無意味と弊害

 

この「こんぶ土居店主のブログ」では、過去にある料理人さんについて触れています。

大阪府島本町にて、自ら山に入って獲物を捕らえてジビエ料理を出す、リストランテコンテの宮井一郎さん(以下、一郎さん)です。

konbudoi4th.hatenablog.com

 

つい先日、久しぶりに一郎さんのお店へ伺う機会がありまして。

大阪万博ランドスケープデザインを統括するようなすごい方々の集まりに、ひょんなきっかけで同席させていただいたような流れです。

ほとんどの方とは初対面だったのですが、食に非常に関心の高い方ばかりで、一郎さんの料理に皆さん本当に喜んでおられました。

あまりに喜んで下さるものですから、ジビエの美味しさとは何であるかと改めて考えてしまいまして。

本日の投稿の趣旨は、タイトルの通り「味を成分で語ること」の問題点についてです。

近年では食に関する分析も進んで来ていますから、味を成分で表現することも増えています。

例えば昆布で言えば、とにかくグルタミン酸ばかりに焦点が当たりがちなわけですが、その問題提起の内容です。

主題について書いた後、後半では改めて一郎さんのお仕事の価値についても書いておきます。

 

 

まず結論から申しますと、ジビエの味わいを考える中で強く感じたのは、『味を言語化など到底できそうもない』ということです。

理由は簡単なことで、「味覚・嗅覚」と、「それを表現するために使う語彙」を比べると、圧倒的に前者の方が複雑だからです。

私たちの舌と鼻は、本当に様々な感覚を持ち合わせています。

特に嗅覚については、無限のバリエーションを感知しているように思います。

 

対して、その複雑な味覚と嗅覚を抽象化して表現するには、「言葉」の機能があまりに貧弱だと思われませんでしょうか。

 

テレビのグルメリポーターが、何かの肉を食べて「やわらか~い!」「ジューシー!!」などと判で押したように言っているのを見て、失礼ながら「アホか!」と思っている私ですが、見方によっては、言葉の機能が貧弱であるが故に「そんな風にしか表現できない」ということなのかも知れません。

一郎さんのジビエと、ブロイラーの鶏肉を比較すれば、明らかに後者の方が「やわらかくて」「ジューシー」でしょう。(言い換えるなら肉質がグニャグニャで水っぽい)

食べ物の味とは、そんな浅い話ではないはずですが、言語化しろと言われれば非常に難しいことはご理解いただけるかと思います。

陳腐で単純な表現が世に溢れることで人々がそれに慣らされ、無意識に単純化された価値観で物を見てしまう傾向につながったりしないかと感じています。

 

 

味覚を言語化するのに最も長けているのは、ソムリエさん達でしょうか。

様々な言語表現を駆使してワインの味わいを表現されます。

しかし、「果実味が豊か」だとか、「重厚でエレガント」だとか、「スパイスや花の香り」に例えたり、「ミネラル感」がどうとか。

もちろん、何も表現しないよりは良いですが、こんな言葉をいくら並べたところで、ワインの味を的確に表現することなどできないのです。

 

過去に私はこのブログで、茨城県つくば市のイタリアワインのインポーター「ヴィナイオータ」さんについて書いています。

konbudoi4th.hatenablog.com

 

一郎さんのお店にも、たくさんのヴィナイオータのナチュラルワインが揃えられていますが、どれも本当に豊かな味わいで素晴らしいです。

しかし、それを言語化など決してできないと感じます。

言語化とは「抽象化」ですから、言い換えれば「型にはめる」ということに繋がってくるかも知れません。

言語化によって規定された単純な評価軸に従って優劣が判定され、多様性を失い、物事は浅くなっていくように思います。

かつて、ヴィナイオータさんのウェブサイトには、以下のような文章が掲載されていました。

 

自然に対して畏怖の念を抱いているのなら、自然環境に最大限の敬意を払った農業を心がけるでしょうし、ヴィンテージやテロワールなど、その年、その場所、その土壌の“自然”が余すことなく反映されたワインを理想とするのなら、醸造時に過剰な介入はしないでしょう。

不思議なことに、このように造り手が“我”を捨てて、その時、その瞬間の良心に従ってできたプロダクトには、唯一無二の個性が付与されます。

年の個性、土地の個性、品種の個性、そしてヒトの個性…

 

 

単純に言語化された評価軸を設定すると、その型にはめるため「醸造時に過剰な介入」にもつながるでしょう。

それは正に、「造り手の“我”」そのものであって、その結果「良心に従ってできたプロダクトの唯一無二の個性」が失われていくのだと思います。

 

 

同じことを昆布の世界で言えば、「うま味」や「グルタミン酸」がそれに当たります。

「うま味」「UMAMI」という言葉が世界中で流行り言葉のように氾濫し、昆布の味がグルタミン酸で鰹節がイノシン酸で、その相乗効果がどうとか。

今だに、そういった下らない情報発信をする人がいかに多いことか。

こんな話が、権威ある方々からも平気で出てくるところが、本当に嘆かわしいです。

 

「うま味」という言葉が無かった時代やグルタミン酸が発見される前から、日本人は昆布を利用し、素晴らしい食文化を築いてきたわけです。

言葉が無くとも、何も問題なかったはずです。

「うまみ」や「グルタミン酸」といった単純化の極みのような表現がされ、またそれは「うまみ調味料」によって代替可能な要素であるわけですから、昆布の価値を表現するのには弊害が非常に大きいと思います。

 

「うまみ」という言葉の歴史については過去投稿でご説明しています。

konbudoi4th.hatenablog.com

 

味を成分で表現することの問題点、弊害をご理解いただけましたでしょうか。

分かったつもりで味覚について表現していることは実は断片で浅く、理解による「効果」より、全体像を見失う「弊害」の方が大きかったりするのかも知れませんよ。

 

今後も私共では、うまみの供給源だとの矮小化された見方ではなく、昆布の真の価値を伝えていきたいと考えております。

そのための、「うまみ」という言葉の一切不使用の方針です。

 

それでは冒頭で書きました通り、ここから後は一郎さんのお店で改めて感じたことを書いておきます。

 

(前半おわり)

 

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食べ物を扱う私の仕事ですし語弊のある言い方になりますが、私はもう「単に、おいしさを追求すること」に強い関心がありません。

これだけ食に関する社会課題が満載の今ですから、所謂「美食」に明け暮れているような人を見ると、非常に軽薄な行為であるように感じてしまうのです。

「おいしいものを食べる喜び」は全人類共通のものであって、とても尊いものですが、それが地に足ついたものであって、「軽薄」にならないために必要な要素とは何でしょうか。

 

私が一郎さんの料理を魅力的だと感じる理由は、「軽薄な美食」の対極にあるからだと思います。

それは、「意義を伴ったおいしさ」でしょうか。

様々な魅力があるのですが、ざっと挙げますと。

一次生産者としての側面』、『環境保全』、『究極のサステナビリティ』、『地域独自性』、『いのちと向き合う』、『学びの場』、『料理人の真の役割といったことです。

 

『一次生産者としての側面』は、自ら山に入り獲物を仕留めて料理されるわけですから、食材の一次生産者でもあるわけです。

日本の一次生産者人口が減り続ける今ですから、その意義は大きいでしょう。

 

環境保全』については、人が山に入らなくなったことで、人間と野生動物のテリトリーの緩衝地帯としての里山の機能が失われ、様々な問題が発生しています。

その個体数を適切にするための捕獲は、獣害対策として行政も補助金を出して対策するほど、大切な社会貢献です。

 

『究極のサステナビリティ』は、現代の食事情を考えれば分かります。

農業をするにしても、野菜を栽培する際の種子は9割方を輸入に依存し、化学肥料に至っては自給率がほぼゼロです。

こういったことを考えると、ただでさえ貧弱な日本の農業生産能力は、持続可能性の観点から大きな問題を抱えているわけです。

一方、山に入って増えすぎた獲物を捕らえることは自然の恵みを適切に得ていることであると同時に、農村の暮らしを守る副次的効果までついてくるわけで、本当に素晴らしいです。

 

『地域独自性』については、一郎さんが山で得るものは動物だけではなく、山菜やハーブ、キノコ、果実など、植物性のものも含みます。

そういった素材でつくられる料理は、必然的にその土地の個性を反映することになりますから、他の地域には無い独自性を生むことになり、それは正に「地域独自の食」と呼ぶべきものでしょう。

 

『いのちと向き合う』については、現代の私たちは食の「現場」から遠ざかってしまっています。

外食も加工食品も充実している今ですから、一切料理せずとも食べていくことはできます。

しかし、それ故に現場への理解が低くなってしまうと思うのです。

山に入って獲物を仕留め精肉する作業は、口で言うほど生易しいものではない、ある種凄惨な仕事でしょう。

動物でも植物でも、他の命を喰らうことでのみ生き続けることができる私たち。

そして、その現場に常に居る一郎さん。

言うだけでなく、厳しさを乗り越えた人のみが持つ説得力があるように思います。

 

『学びの場』については、お店で出されるジビエは、捕獲後に精肉する必要があるわけですが、レストラン横にそのスペースがあるのです。

ガラス張りになっていて、タイミングが合えば店内から見ることもできます。

目を背ける方もあるかとは思いますが、私たちが肉を食べるということは「こういうこと」であるという理解は少なくとも得ているべきだと思うのです。

 

『料理人の真の役割』

例えば、鹿のロース肉があったとしましょう。

こういった食材であれば、素人でも簡単に調理できるでしょう。

しかし普通の人は、見慣れない内臓肉を渡されても、どう調理していいか分からないものです。

そこでプロの出番。

一郎さんのお店では、ジビエの内臓肉の料理が常に出てきます。

頭から尻尾まで、肉だけでなく内臓、骨、皮、血までも使って。

素人では扱えないようなものを無駄なく活用して素晴らしい料理に仕上げることこそが、プロの料理人の技術が本当に活きる場だと思うのです。

値の張る高級食材ばかりを出す飲食店もあるかと思いますが、そんなものは素人が扱っても美味しい料理になります。

 

また、害獣駆除の社会的要請があっても、捕獲自体が目的になってしいまい、廃棄されたりすることも少なくないようです。

なんとももったいないことですが、それは「美味しく食べる」ための方法への無理解が生むことであって、料理人であるからこそ捕獲方法やその後の処理などを適切にし、価値を最大化することにもつながると思うのです。

 

料理人さんが社会に向けて貢献する価値は、まずは「おいしいものを提供すること」でしょう。

しかし、これだけ食に関する社会課題が多い今ですから、それを超えた役割を果たす方は、本当に素晴らしいと思います。

 

(了)

「KOMBU」でなく「KONBU」と書こう!

 

『昆布』が英語で表記される際、「KOMBU」となることが多いようです。

例えば、英語版のWikipediaでも、以下の通りです。

en.wikipedia.org

 

しかし私は、少々これは不適切なのではないかと考えています。

「こ・ん・ぶ」の真ん中の音がなぜMなのか。

普通に考えればNです。

ですから私は、「KOMBU」でなく「KONBU」と書くべきだと思うのですが、本日の投稿では、それについてより詳しくご説明するものです。

 

段落として、以下のように進めたいと思います。

【KOMBUと書かれる理由】

ヘボン式の機能不全】

【修正ヘボン式、日本語に誇りを!】

【理解者、ナンシーさん】

 

ではまず、

【KOMBUと書かれる理由】

これはもう、シンプルな話なのです。

ローマ字表記の方法として最も一般的な「ヘボン式」の取り決めが理由です。

 

ヘボン式ローマ字は、日本語表記をラテン文字表記に転写する際の規則、いわゆるローマ字の複数ある表記法のうち、日本国内および国外で最も広く利用されている方式である。 (出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

 

とのことです。

ヘボン式で昆布をどのようにローマ字表記するか。

熊本県のウェブサイトが分かりやすく説明していますから、引用します。

https://www.pref.kumamoto.jp/soshiki/70/2903.html

 

関係箇所を抜粋しますと。

「ん」は「N」と綴ります。
ただし、「B」「M」「P」の前の撥音については「M」と綴ります。

とのことです。

このような取り決めがあるからこそ、「KOんBU」の「ん」はBの前ですからMに化けて「KOMBU」となってしまうわけです。

しかし私はやはり「KONBU」と書くべきだと考えています。

その理由を、次の段落でご説明します。

 

 

ヘボン式の機能不全】

まずそもそも、日本語をローマ字表記する際に機能として必要なことは「発音の再現性」でしょう。

日本人が日本語を話す際の「音」を、ローマ字表記を読んで正しく発音できるか、ということです。

 

ヘボン式が、「B」「M」「P」の前で特殊な取り決めをする理由を考えると、一つには英語にはそういった事例が多いからでしょう。

 

その代表例が、英語の「COM」と「CON」です。

これらは両方、(一緒に、共に〜)の意味合いを含む接頭辞で、同じ意味です。

具体的な単語をご紹介しますと、

【グループA】

Conceal (~を隠す)

Conceive (思いつく)

Consent (同意する)

Concentrate (集中する)

Concern (~に関係する)

Confuse (~を混乱させる)

Conflict (~と衝突する)

Constant (不変の)

Contract (~と契約する)

Confront (~に立ち向かう)

このように、基本的には「CON」と書くのです。

 

しかし、b、p、mが続けば、

【グループB】

Compromise (妥協する)

Compare (~と比較する)

Compensate (~を補償する)

Compliment (賛辞、~を褒める)

Compatible (~と互換性のある)

Combine (~と結合する)

Compassion (同情)

Complete (完璧な)

Complex (複合の)

Compose (~を構成する)

というように「COM」に化けてしまいます。

 

これは、言ってみれば「英語のクセ」でしょう。

そして、ここで注意すべきことは

「con」と「com」は発音が違う

ということです。

Concealの発音記号は【kənsíːl】であって、Compromiseの発音記号は【kɑ'mprəmàiz】ですから、nとmの発音は違うわけです。

 

b、p、mの前ではMがNに化けてしまうことを「英語のクセ」だと書きましたが、それはあくまで「クセ」であって、Nの発音ができないわけではありません。

『INPUT』などは、Pの前でも『M』に化けることなく『N』のままであり、当然Nの発音をするわけですから、あくまで「傾向」ということです。

 

ここで日本語に戻ってみましょう。

『ん』の音が、ヘボン式でどのように表記されるのか見ますと。

 

【グループA】

混同(こんどう) KONDO

昏倒(こんとう) KONTO

根底(こんてい) KONTEI

 

【グループB】

昆布(こんぶ) KOMBU

棍棒 (こんぼう) KOMBO

梱包 (こんぽう) KOMPO

混迷(こんめい) KOMMEI

 

ここまでの内容で注意していただきたいことは、

英語であれば「COM」と「CON」の音が違い

日本語は「KON」と「KOM」が同じ音、である点です。

違う発音表現に違う表記を用いるのは当たり前です。

しかし、同じ発音を表現するのに違った表記をするのは、「日本語の発音を正しくアルファベットを用いて再現する」という本来の目的に照らして、おかしいと思われませんでしょうか。

まさか、『混同 KONDO』と『昆布 KOMBU』の『こん』の音が違うと考える方はいないでしょう。

 

参考までに、なぜヘボン式でこんな特別な規定がされてしまったかを考えますと、恐らく理由は、「M」と「N」の唇の動きの違いです。

「M」が表す「ま行」「まみむめも」は、発音時に必ず一旦唇が閉じます。

一方、「N」が表す「な行」「なにぬねの」では唇が閉じないことがお分かりいただけると思います。

 

また「B、M、P」も必ず一旦唇が閉じるので、言わばその「親和性」とでも言いましょうか、引きずられるような形になっているのだと思います。

これは、先に「CON」と「COM」の例でご説明したように、「英語のクセ」でしょう。

繰り返しますが、「CON」と「COM」は発音が違うのですから、違う表記をしても問題ありませんが、日本語の場合、全く同じ『ん』という発音をするのに、それが時にNになったりMになったりしてしまうのは不適切だと思われませんでしょうか。

これが、「日本語を表音文字であるアルファベットを用いて正しく再現する」という本義に照らして私が考える「ヘボン式の機能不全」です。

 

 

【修正ヘボン式、日本語に誇りを!】

私と同じ考えに立って下さったのか、実は「修正ヘボン式」という表記も存在しているのです。

この方法では、後ろに「b, m, p」が続いたとしても「ん」は常に「N」と表記することになっています。

 

それでも、私たちの名前がアルファベット表記される場合、代表的なのはパスポートへの記載ですが、その場合もヘボン式が引き続き利用されています。

しかし、これこそ変でしょう。

明石家さんま」の音を正しく表しているのは、「Akashiya Sanma」でしょうか。それとも「Akashiya Samma」でしょうか。

誰に聞いても答えは前者でしょう。

私たちは日本人として、「日本語の正しい発音」に、もう少し誇りを持つべきだと思うのですが、いかがお考えでしょう。

嬉しいことに英語版のWikipediaには、以下の通りに書かれています。

en.wikipedia.org

 

【理解者ナンシーさん】

本日私が書いてきた内容を、過去に多くの方にお伝えしてきたわけではありません。

しかし、外国の方へのアルファベット表記ですから、外国人にどのように受け取られるか確認したく、知人にお話したことがありました。

それが、日本の食文化に精通し、海外でも広く発信して下さっているアメリカ人「ナンシー八須シングルトン」さんです。

www.nancysingletonhachisu.com

 

日米両国で、日本食文化に関するご著書も発行されていますが、ナンシーさんは昆布については常に「KONBU」と書いて下さっています。

以前に、私が「KOMBU」に違和感を持っていることをお伝えすると、大賛成して下さいました。

今回の私のご説明を応援して下さる、とても嬉しい理解者です。

 

以上です。

 

私たちは日本人であって、特に日本の文化を伝えるときには、その言葉にも誇りを持って臨むべきだと思うのです。

であれば、「KOMBU」と発音する外国人がいたとすれば、それを正すぐらいの姿勢が必要でしょう。

日本人自らが「KOMBU」などと書いてしまうことは、是非避けたいものです。

こんぶ土居は、これまでもこれからも「KONBU DOI」 です。

 

(了)

不本意ながら、こんぶ土居「白だし」を開発しようか

 

 さて、私共が40年来つくり続けてきた、濃縮だし製品「十倍出し」。

konbudoi.shop-pro.jp

 

三代目が、「便利な本物」というキーワードの元に開発したものです。

改良を続けながら、高級版の「本格十倍出し」、廉価版の「標準十倍出し」に加え、昨年からは鰹節等の動物性原料を一切使用しない「純植物性十倍出し」も加わりました。

 

「十倍出し」を初めて見るお客様の中には、「白だしのようなものですか?」と仰る方が少なくありません。

この言葉を聞く度に、私は少し複雑な気持ちになります。

 

そもそも、私が子供の頃には「白だし」と呼ばれる製品は、無かったと記憶しています。

めんつゆは普通に売られていましたし、顆粒の「だしのもと」もありました。

しかし「白だし」と呼ばれる製品カテゴリーは、いつの頃からか一気に市場に普及し出したように感じています。

言い換えれば、「現代人の支持を得ている」ということでしょう。

 

こんぶ土居の「十倍出し」と、所謂「白だし」は、コンセプトが違うのです。

「十倍出し」は、ご家庭での「だしを取る作業」を肩代わりしたような製品であって、言ってみれば「ただの濃いダシ」です。

少し塩分を加えていますが、これは味付けのためでなく保存性を高めるためであって、最小限です。

「十倍出し」のみで料理の味付けが完結するわけでなく、料理に合わせて調味料を加えて仕上げていただく必要があるわけです。

店頭に来られるお客様の中にも、「使い方」を尋ねられる方が昔より増えたような気がします。

ただの「だし」なわけで、お好きなように使って頂ければ良いのですが。

そんな声への解決策として、使用例レシピ動画をYouTubeで公開し、リンクのQRコードを製品ラベルに印刷しています。

www.youtube.com

 

一般的な「白だし」製品にも、必ず製品ラベルにレシピのような使用例が記載され、それのみで料理が完結する方向で作られているようにお見受けします。

実は「十倍出し」は、過去と比べて販売数量が少し落ちているのです。

品質面では常に日本一であると自負しています。

コンセプトの近い他社製品を発見する度に買ってみて、自社製品との比較もしてみるのですが、過去も今も常にナンバーワンの品質であると感じています。

しかしそれでも、製品ヘの支持が拡大しているとも言えないのが現状です。

 

この理由を考えたとき、今が「白だし時代」であるからではないかと思うようになりました。

つまり、自分で工夫して味見をしながら、調味料を調合して仕上げることが敬遠され、「味付け、これだけでOK!」といった、とにかく簡単なものを求める人が多いということでしょう。

 

食材や調味料などを組み合わせて調製する「料理の本義」から、徐々に遠ざかってきているようにも思えて残念ですが。

この問題については、過去投稿でも書きました。

konbudoi4th.hatenablog.com

この過去投稿を書いたときには、市販の「なべのもと」を買って、それを鍋に注いで具材を煮ることを、果たして料理と呼べるのかと疑問を呈しました。

これと「白だし」の多用は、似た構造だと思うのです。

なかなか困った時代です。

 

しかし、今が「白だし時代」であって、それを求める方が多いのなら、私共でも「白だし製品」を作ってみようかと考えています。

当然ですが、うまみ調味料には頼らない本物です。

不本意に感じないでも無いのですが、消費者ニーズに合わせるということでしょうか。

消費者を3つのグループに分けて考えますと。

 

グループ①『本当に食に関心が強く、自分で料理するのが好きな方』

には、昆布を買っていただいて、だしをとるところから始めていただくのが最善でしょう。

 

グループ②『いちいちだしを取るのは面倒だけど、料理は好きで、調味が苦手で無い方』

には、十倍出しを利用して、他の調味料と合わせて料理を仕上げていただくのが良いかと思います。

 

そして、検討するこんぶ土居の「白だし」の想定ユーザー層は、

グループ③『本物の食品についての理解があってそれを求めているが、同時に簡便さを求めていたり、又は料理が苦手な方』

でしょうか。

 

製品実現への道は、実はとてもシンプル。

白だし」に含まれて、「十倍出し」にないもの、それは「甘味と醤油味」ですから、それを足すだけです。

簡単なことです。

こう考えると、「めんつゆ」と遠からずですが、最大の違いは「色味」です。

「めんつゆ」は、こいくち醤油由来の黒めの色合い、それに対して「白だし」は、文字通り色を淡く仕上げます。

そのためには、うすくち醤油と塩の出番です。

 

実は、この特徴、私共の従来品の「うどんそばだし」と重複する部分が多いのです。

しかし「うどんそばだし」を製造する理由は、うどんだしの調合が意外に難しいからであって、「白だし」の製品コンセプトとは少し異なります。

適当にダシ素材と調味料を合わせて用意しても、なかなか求める味にはならないのが「うどんだし」でして。

konbudoi.shop-pro.jp

 

ですので、良い「白だし」製品が完成し、用途を補完するものになれば、うどんそばだしは廃盤にするかも知れません。

現段階では、なんとも言えませんが。

 

製品づくりも、なかなか難しいものです。

こんぶ土居の公式サイトのトップページには、以下のように書きました。

 

こんぶ土居では、伝統ある大阪の食文化を守り育て、本物を次代に伝えることが私どもの使命だと考えています。また、伝統を大切にしながら、時代に合った便利な製品の開発、お求め易い価格の新製品等、常にお客様の立場に立った食品づくりを心がけております。

www.konbudoi.jp

 

このコンセプトを体現する製品とは、どのようなものであるのか。

頭を悩ませます。

さてさて、多くの方に支持していただけるものになりますでしょうか。

試作品で終わるのか、レギュラー製品化できるのかは、現段階では何とも言えません。

 

(了)

 

『うま味』『UMAMI』とは、新しい『造語』である。

 

こんぶ土居では今後、昆布や自社製品を表現する際に、「うまみ」という言葉の使用を避けます。

商品のラベルやオンラインストアでの説明文、公式ウェブサイトを含め、この言葉を使わない方向で進めます。

現在では一部に表記が残っていますが、順次、文言の変更を進めていきます。

こんな私共の対応を不思議に感じる方があるかも知れません。

ある意味、昆布と「うまみ」という言葉は切っても切れない関係にあるわけですから。

本日の投稿は、その理由についてご説明するものです。

 

そもそも、この「うまみ」という言葉、あまり美しい表現ではありません。

「うまみ」は、「うまい」の名詞形ですが、「おいしい」と「うまい」を比較するならば、後者は粗野な印象を受ける言葉です。

他には、仕事や商売などで利益やもうけが多いということを表現して「うまみのある話だ」などと言ったりしますね。

どちらの意味でも、あまり品の良い言葉ではなさそうです。

 

本投稿では主に、【言葉の変遷の歴史】を

 「時代① 1908年以前」、「時代② 1908年から昭和」、「時代③ 平成以後」

以上、三つの時代に分けてご説明したいと思います。

 

 

【言葉の変遷の歴史】

まず、前置きをさせて下さい。

意味の混同をさけるために、「うまみ」の表記方法を2つに分けます。

「旨み」と「うま味」です。

前者「旨み」は、食べ物が美味しいことを意味する言葉として。(「うまい」の名詞形)

対する「うま味」は、「甘味、苦味、酸味、塩味といった基本の味を指す言葉、(UMAMI)」としますが、これは『特定非営利活動法人 うま味インフォメーションセンター』による説明です。

うま味インフォメーションセンターによりますと、「旨み」と「うま味」は、同音異義語だとのことで。

私はこの「同音異義語説」に賛同しているわけではありませんが、混同を避ける目的での使い分けには有用だと思いますので、本投稿では「旨み」と「うま味」を、表記方法として使い分けます。

どちらの意味も含ませたい場合は「うまみ」と書きます。

www.umamiinfo.jp

 

 

では最初の時代区分から

時代① 1908年以前

日本人は古くから、与えられた自然の恵みからおいしさを得ていたわけです。

本日のテーマである「うまみ」を考えれば、昆布の味わいも、その代表的なものでしょう。

その利用の歴史は古く、産地である北海道や北東北では、縄文時代から利用されていたと考えられているようです。

産地以外では流通が必要なわけですが、ごく少量かも知れませんが奈良時代の書物に昆布の記載があったりします。

つまり、古くから日本人は「昆布の美味しさ」を知り、それを活用してきたということです。

しかし昔の日本人が「うま味」という言葉を使っていたかと言えば、そんなことは一切ありません。

昆布だしを飲んで「おいしいなぁ」と思ったとしても、それを誰も「うま味」だなどと表現しなかったわけです。

それは、この言葉が生まれたのが1908年であるからです。

「日本うま味調味料協会」のウェブサイトでは以下のように説明されています。

 

東京帝国大学・池田菊苗博士は、昆布だしの味の正体を明らかにする研究を始めました。そして1908年、昆布からグルタミン酸を取り出すことに成功。グルタミン酸が昆布だしの主成分であることを見出し、その味を「うま味」と名づけました。』

www.umamikyo.gr.jp

 

つまり、名づけ親の人物も、そのタイミングも、明らかになっているわけです。

逆に言えば、1908年以前は「うま味」という言葉は存在しなかったことになります。

そして、この命名者である池田菊苗氏こそ、当時は「化学調味料」と呼ばれていた「うま味調味料」の考案者であり、「味の素」の誕生に繋がることになります。

 

時代②1908年から昭和

前段でご紹介した通り、「うま味」という言葉が生まれたのは1908年です。

しかし、今は「うまみ調味料」と呼ばれる製品も、ずっと「化学調味料」と呼ばれてきましたし、この「時代②1908年から昭和」には、「うま味」という言葉は、ほぼ認知されていなかったと言って良いと思います。

そう申し上げる根拠のひとつは、国語辞典の説明内容です。

 

古い辞書の写真ですが、この「三省堂国語辞典」は、私が小学生の頃に使っていたものです。

f:id:konbudoi4th:20241221110214j:image

 

発行年度としては、「第三版 1982年2月1日第一刷発行」とあります。f:id:konbudoi4th:20241221110209j:image

 

 

この辞書での「うまみ」の項目の説明文を、そのまま引用しますと。

 

うまみ[《旨味](名)①うまいと思う感じ。②じょうずだと思う感じ。③〔商売上の〕おもしろみ。「のある商売」

 

以上です。これだけしか書かれていません。

この表記が、後の時代に変化するのです。

 

 

時代③平成以後

前段でご紹介しました「三省堂国語辞典」は版を重ね、現在でも発行されています。

現在発行中の「三省堂国語辞典 第八版 2022年1月10日第一刷発行」より引用しますと、「うまみ」の説明文の中に以下のような内容が追加されていました。

 

「(コンブ・シイタケ・かつおぶしなど)和食のだしなどの味。第五の味覚。グルタミン酸イノシン酸。」

 

前段でご紹介した通り、1982年発行の第三版には、こんな意味は書かれていません。

ついでに申し添えますと、2022年の第八刷には「うまみ」の説明に続く形で「うま味調味料」という言葉の説明が続くのですが、1982年の第三版には「うまみ調味料」の項目もありませんでした。

これは、当時は「化学調味料」という呼称が一般的であったことが理由でしょう。

 

昭和も終わりに近づく1982年には表記が無く、2022年版には表記されているわけです。

こう考えると、うま味インフォメーションセンターが説明する、

「うま味」(甘味、苦味、酸味、塩味といった基本の味を指す言葉、UMAMI)

は、昔から日本人が使ってきた言葉ではなく、平成以後に広く通用するようになった新しい語法であることは間違いないでしょう。

 

また、「(コンブ・シイタケ・かつおぶしなど)和食のだしなどの味。第五の味覚。グルタミン酸イノシン酸。」

という説明と

うま味調味料

という新項目の併記が共に進んできたことを考え合わせると、「うま味」は、「化学調味料」を「うまみ調味料」と言い換える過程で広く認知されてきた言葉なのかも知れません。

 

 

【まとめ】

長々と歴史をご説明してきましたが、ご理解いただけましたでしょうか。

本日の投稿のタイトル、『うま味』『UMAMI』とは、新しい『造語』である

繰り返しになりますが、造語の命名者は池田菊苗氏、命名時期は1908年です。

ある特定の個人が、新しい語法を考え出し、それが広まること自体は否定しませんが、先に書きました通り、池田菊苗氏は味の素の産みの親であるわけです。

であれば、造語「うま味」の起こりは、「うまみ調味料の起こり」とセットであるわけです。

昆布などの味を評して、古い時代から日本人が使ってきた言葉では決してありません。

 

昆布だしが美味しいと思ったのならば、それは「昆布のおいしさ」です。

「うま味」が無関係だとは言いませんが、「昆布のうま味」と表現されるならば、それは昆布の価値を矮小化しています。

 

また、文字表記でなく話し言葉で「コンブノウマミ」と言われた際に、それが「昆布の旨み」「昆布のうま味」のどちらを指しているのかを文脈上で判別することは容易ではないでしょう。
「旨み」と「うま味」が同音異義語だと言う説を私が支持できないのは、こんな理由でもあるのです。
「箸」と「端」と「橋」は、話し言葉でも混同が起きるリスクが少ないからこそ、同音異義語として成立するのではないでしょうか。

 

私は「混同が起きないように」と願っているわけですが、逆に、うま味調味料の業界は、昆布の自然の美味しさ(旨み)と、グルタミン酸ナトリウムに代表される「"うま味"調味料」のイメージの混同が起きた方が、それこそ『うまみのある話』なのかも知れません。

これが、今後こんぶ土居が「うまみ」という表現を撤廃したいと考える理由です。

 

私は、昆布文化を未来に伝える役割であると自認しているわけですが、うまみ調味料の多用によって、昆布文化はどんどん衰退してきているわけです。

以下の過去投稿でご説明している通りです。

konbudoi4th.hatenablog.com

konbudoi4th.hatenablog.com

 

また、それは同時に健康悪化にもつながります。

konbudoi4th.hatenablog.com

 

 

過去から何度も繰り返していますが、うまみ調味料を使おうが避けようが、そんなことは個人の自由です。

しかし、その多用の過程で失われるのは「文化」と「健康」であるのは間違いありません。

少なくとも、昆布屋としての私の役割を考えれば、両者の混同を避ける情報発信をすることは、言わば社会的責務だと考えています。

昆布業界としても、一丸となってこんな趣旨の発信ができれば良いのですが、現状は程遠いです。

それどころか「うま味」「UMAMI」を喜々として発信していることがほとんどですから、嘆かわしいことです。

 

良くも悪くも、もはや世界の共通語として通用するようになった言葉「UMAMI」。

海外の人も含めて、「うま味」と「昆布のおいしさ、旨み」の違い、そして日本食文化と日本人の健康に与える影響について、正しく認識してもらう方法は無いものかと頭を悩ませます。

 

(了)

 

「昆布だし」と「かつおだし」、うまみ調味料での代替可能性比較

 

過去投稿で何度も書いておりますが、非常に残念なことに、日本のだし文化は衰退を続けています。(詳しくは、下記の過去投稿を)

konbudoi4th.hatenablog.com

 

もはや、自然素材からだしを取るご家庭は、明らかに「少数派」と言って良いでしょう。

理由は簡単、「代替品」があるからです。

代替品とは、だしの「うまみ」と呼ばれる役割を担う「うまみ調味料」、又は、それを含有する「だしのもと」や「だしパック」です。

 

本日の投稿は、自然素材でとった「だし」の味と、だしの「うまみ成分」だと評されてきたもの、その比較についてご紹介するものです。

流れとしては、以下の通り書きたいと思います。

 

1.【比較検証の動機】

2.【実験手法と、その目的】

3.【味を見た私の感想】

4.【その結果を踏まえての新たな実験】

5.【得られた結論】

6.【素材の「低品質化」が進む?】

7.【まとめ】

 

それではまず、最初の段落から。

 

1.【比較検証の動機】

「うまみ成分」ということが表現されるとき、代表的なだし素材に含まれる成分が紹介されることが多々あります。

「昆布のうまみ成分はグルタミン酸」「鰹節はイノシン酸」「干し椎茸はグアニル酸」といったものです。

また、これらには互いを引き立て合う「相乗効果」があると、よく説明されます。

 

その相乗効果を期待してのものでしょうか。

市販される「うまみ調味料」にも、複数の成分が併用されているのです。

実例として、代表的製品「味の素」の成分をご紹介しますと、以下の通り。

 

「味の素」の成分
グルタミン酸ナトリウム 97.5%、イノシン酸ナトリウム 1.25%、グアニル酸ナトリウム 1.25%

 

つまり、味の素自体が、所謂「相乗効果」を活かした製品だと言えるのでしょう。

しかし私は、この配合割合を不思議に感じたわけです。

イノシン酸ナトリウム とグアニル酸ナトリウムが、僅か1.25%の配合割合に過ぎないのに対し、グルタミン酸ナトリウムが実に97.5%を占めるわけです。

この大きな偏りは何を理由とするものか、不思議に思います。

 

私が考えた仮説としては、イノシン酸ナトリウム やグアニル酸ナトリウムに比べて、グルタミン酸ナトリウムが、より効果絶大なのでは無いかということです。

イノシン酸グアニル酸は、相乗効果を実現するための「補助的役割」に過ぎないのではないかということです。

仮にそうであれば、その絶大なるグルタミン酸ナトリウムの効果ゆえに、それと共通する成分を有する「昆布だし」を駆逐していっているのではないかと考えた訳です。

 

この仮説は、別の角度から見ても、あり得るように思えました。

例えば、過去に書いた以下のような投稿。

konbudoi4th.hatenablog.com

 

この当時書いた通り、部屋の内装材等に使われる木質フローリングは、表面的には木のように見えても、内部が「木」でないことも多いわけです。

私達の目に見えるのは表面だけですから、その奥が何で構成されていても分かりません。

同じようなことが「だし」にも言えるのではないか考えた訳です。

 

昆布とかつおの合わせだしで言えば、立ち上る鰹節の風味は、「華やかな主役」。

表舞台です。

それに対して昆布は、主役を引き立てる名脇役「縁の下の力持ち」でしょうか。

「縁の下」にいる人が、別の人に差し変わっていてもすぐには気づかないのと同じように、昆布の味は鰹節の味に比べて、うまみ調味料に代替されやすいのではないかと考えた訳です。

これが、本日の投稿のタイトルにした

「昆布だし」と「かつおだし」、うまみ調味料での代替可能性比較

の趣旨です。

この仮説の検証のために、次のような実験手法を考えました。

 

 

2.【実験手法と、その目的】

方法としては非常にシンプルでして、用意するものは4つ

「昆布だし」「かつおだし」「グルタミン酸ナトリウム」「イノシン酸ナトリウム」です。

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左が昆布だしで、右がかつおだしです。

 

後者のうまみ調味料も、普通にネット通販で手に入りました。

まずは、グルタミン酸ナトリウム

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イノシン酸については、以下のような製品で、製品名は「リボヌクレオチド二ナトリウム」となっていますが、成分としては、「イノシン酸ナトリウム」と、椎茸のうまみ成分である「グアニル酸ナトリウム」を50%ずつ配合したものです。

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本当は、イノシン酸ナトリウムの単体の製品が良かったのですが、見つかりませんでしたので、今回の実験ではこれで代用し、以下「イノシン酸ナトリウム」と表現します。

 

 

まず、用意した昆布だしとかつおだしを混ぜ合わせれば、「昆布とかつおの合わせだし」になりますね。

その味を基準として、比較として以下のサンプル「P・Q・R」を用意します。

 

P「昆布だしにイノシン酸ナトリウムを混ぜたもの」

Q「かつおだしにグルタミン酸ナトリウムを混ぜたもの」

R「グルタミン酸ナトリウムイノシン酸ナトリウムを水に溶かしたもの」

 

私の本日の仮説で言えば、PではなくQが、本物の「昆布かつおだし」の味わいに近いのではないか、ということです。

Rは論外だと思いますが、参考までに用意しました。

さて、どんな結果になりましたでしょうか。

 

 

3.【味を見た私の感想】

長々と仮説を書いて参りましたが、結論から申しますと、私の予想は大きく裏切られました。

順にご説明します。

 

まず、「グルタミン酸ナトリウムイノシン酸ナトリウムを水に溶かしたもの」については、想像がつくでしょう。

論外です。

全く「昆布かつおだし」とは異質のもので、単に、なんとなくナゾの化学物質の味がするだけです。

「昆布かつおだし」の美味しさとは全くの別物です。

 

次に「昆布だし」を見ます。

これだけでも美味しいのですが、やはり「昆布かつおだし」と比べると、華やかさに欠け、捉えどころのない地味な味わいです。

これに、イノシン酸ナトリウムを加えたところで、それが鰹節の香りを発揮するわけではありませんし、「昆布かつおだし」にはならないのは、多くの方が想像できるところでしょう。

事実、そうなりました。

なんだかよく分からない味でした。

イノシン酸による「かつおだし」の代替可能性は低いこと、想像した通りでした。

 

 

次に、「かつおだし」を見ます。

かつおだしも素晴らしいのですが、やはり単体では味の厚みが足りないのです。

薄っぺらく、立体感がありません。

底支えをする昆布が欠落することで、大きく魅力を失います。

では、その効果を「グルタミン酸ナトリウム」に期待して加えてみましょう。

 

これについては私の当初の予想は裏切られました。

もう少し良い結果が出るかと思いましたが、全くと言って良いほど「昆布かつおだし」とは違った味になったのです。

昆布が発揮する、様々な自然の成分によるふくよかな味わいとは異質でした。

 

結局つまり、うまみ調味料では、昆布の代替にも鰹節の代替にも全然ならないと感じました。

言い方を変えれば、「うまみ成分」として代表される両成分以外の、他の自然素材に含まれる要素が大きく関係しているということでしょう。

 

 

4.【その結果を踏まえての新たな実験】

前段に書いた通り、所謂「うまみ成分」では、昆布の代替にも鰹節の代替にもならないと感じたわけです。

しかし、それでも世間を見渡せば、実際にうまみ調味料が加工食品に多用されているわけです。

効果の乏しいものが広く使用されるはずはありませんから、世間一般での実例と、私の感想が食い違うことになります。

このあたりを整理すべく、新たな実験を用意しました。

 

それは、こんぶ土居製品「十倍出し」の、「20倍出し」への変身計画です。

konbudoi.shop-pro.jp

 

この製品は、ネーミング通り原液を水で10倍で希釈してご利用いただくことを想定しています。

当然ながらそれを20倍に希釈してしまうと、味わいが薄く物足りなくなるわけです。

しかし、これにグルタミン酸ナトリウムを加えると、「物足りなさ」が解決され、もはや普通に成立するように感じます。(十倍出しに含まれる塩分も同時に薄くなりますので、塩も補います。)

むしろ10倍希釈のものよりも遥かに強い「うまみ」を呈する、「だしのようなもの」になりました。

 

更に、30倍希釈版の実験もしましたが、単に希釈した段階では、薄い薄い白湯のような味のものにしかなりません。

しかしこちらも、「うまみ調味料の添加と塩分調整」によって引き続き、「強いうまみを呈するだしのようなもの」になりました。。

いやはや、驚くべき効果!

この分だと、50倍希釈などでも同様の結果になるように思えます。

 

ただ、いつまでも舌に残り続けるうまみ調味料特有の傾向は、本物のだしとは「やはり異質」であったことも申し添えます。

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(左から、10倍希釈、20倍希釈、30倍希釈です。30倍は、色もほぼ無色になりました。)

 

 

5.【得られた結論】

以上の実験から得られた結論は、

 

当然ながら「だし」の代替にはならない。しかし、本物に似せた「水増し製品」の製造に、絶大な効果を発揮する。

 

でしょうか。

海外では、うまみ調味料を「Flavor Enhancer」と呼ぶことがあります。

例えば、下のリンクのような製品です。

これは、直訳すると「風味増強剤」です。

正に、「風味を増強する」効果があるということでしょう。

www.ebay.com

 

「20倍出し」「30倍出し」実験でご紹介したような、自然素材の部分的代替の行きつく先が、もはや「自然のだし素材」と「うまみ調味料」の主従が逆転した顆粒だしのような製品であり、こうして日本のだし文化は「まがいものばかり」の現状に至ったのでしょう。

konbudoi4th.hatenablog.com

 

 

6.【素材の「低品質化」が進む?】

別の観点からのお話を少し。

私共は昆布屋ですので、品質の良い「だし昆布」を提供しようと努めるわけです。

良いだし昆布とは何かと言えば、「昆布の良い味わいは強く」、そして同時に「雑味は少なく」ということに集約されるかと思います。

これは鰹節や煮干しでも同じで、高品質な製品とは、しっかりとした味わいを確保しつつ、同時に「不要な味」をいかに含ませないかということです。

なにしろ「だし」は、そもそもそれ自体が主役ではなく、他の素材を引き立てる役割であるわけですから。

 

鰹節で言えば、良いカビの力を利用して仕上げる高級品「枯節」と、かびつけの工程のない「荒節」に大別されます。

鰹節の特徴的な風味が何に由来するかを考えると、「焙乾」の工程も大きく関係し、言ってみれば「かつおのスモークされた香り」でしょうか。

このスモーク感で言えば、枯節は荒節より穏やかであることが一般的です。

それは、かび付けの前に、燻製によって生じた荒節表面のタール分を削り落とすからです。

このスモーキーな香りは、鰹節特有の「個性」ではあるのですが、それが強すぎると下品な味わいになるものです。

鰹の魚体サイズで言えば、表面積と重量の関係で、小さな魚体で製造された鰹節ほど燻製香は強くなります。

 

昆布で言えば、昆布の品種による味わいの違いも関係しますし、同時に厚みについても同様の事が言えるのです。

「昆布っぽい風味」で言えば、ぶ厚い昆布より薄い昆布の方が明らかにその傾向が出ます。

konbudoi4th.hatenablog.com

 

私共の製品の「本格十倍出し」で言えば、昆布も鰹枯節も品質の良いものをふんだんに使用します(使用量は製品ラベルやオンラインストアに明記しています)

それを、「薄い昆布」や「魚体サイズの小さな荒節」で代替したとするならば、「雑味」が強く出てしまって下品な味わいになってしまうわけです。

 

しかし、「ほんだし」等の原材料に使うのであれば、逆の事が言えるのかもしれません。

なにしろ、うまみ調味料が主成分であって、だし素材はごく少量しか使われないのですから。

それでいて、昆布や鰹節の風味を感じようとするならば、本格十倍出しと真逆の傾向の原料の方が適しているのではないかと思います。

つまり、「薄い昆布」や「魚体サイズの小さな荒節」がそれに当たるかと思います。

 

実際に、素材の製造現場においては、そんな傾向が出てきているのです。

昆布漁師さんでも鰹節の生産者でも、「ものづくり」をする人は、本当は良いものをつくりたいと願っているのではないでしょうか。

昆布で言えば、養殖物であったとしても、しっかりと厚みのある良い昆布を育てたいと。

かつお節で言えば、立派な魚体の鰹を使って、誇らしいような本枯節をつくりたいと、そう願っているのではないでしょうか。

しかし、実際は近年、昆布でも鰹節でも「質より量」の傾向が強く出ているように感じています。

こう考えると、うまみ調味料によって実現する「まがいもの」が増えることは、原料の生産現場の景色さえ変えているのかも知れません。

昆布の「質より量」への傾向は、以下の過去投稿でもご説明しています。

konbudoi4th.hatenablog.com

 

 

7.【まとめ】

今回の投稿は、「味覚」の話を多分に含みますから、理解への近道は体験していただくことでしょう。

そんな体験イベントを、大阪昆布ミュージアムで開催したいと考えています。

ぜひ多くの方に、今回の私の実験を追体験していただきたいと思っています。

 

冒頭で書いたように、日本のだし文化は、どんどん衰退しているのです。

インスタントコーヒーを買っても、それがコーヒー豆以外から「苦み」や「香り」を得ているなんてことは無いでしょう。

言ってみれば「本物」なのです。

お酒の世界でも、醸造アルコールや調味料類をを加えて増量する「三増酒」等も、戦中戦後の米不足の時代から始まって以後長らく製造されてきましたが、現在ではほぼ一掃されています。

それなのに、日本の伝統食文化の核となる「だし」が、イミテーションにまみれた現状で良いのでしょうか。

グルタミン酸がどうだとか、イノシン酸がどうだとか、その相乗効果がどうだとか。

 

何よりも「うま味」「UMAMI」を喜々として発信することの「薄っぺらさ」がご理解いただけましたでしょうか。

 

ついでに書きますと、味が複雑だということは、栄養成分も複雑だということ。

そんな内容については、下記の過去投稿もご参照下さい。

konbudoi4th.hatenablog.com

 

日本人の健康と、日本の伝統文化を守るため、是非ご理解いただきたいと思います。

 

(了)