人間は、食べ物に美味しさを感じます。
美味しいと感じること、その感覚の役割は食べることの動機付けだと思います。
食べることは、生きる上での最も大切な行為ですから、それに対して強い欲求がないのであれば、生存そのものの危機です。
つまり基本的には、人間は摂取すべきものを口に入れたとき、喜ばしい感覚として美味しさを感じるようにできているはずです。
それを感じているのは舌と鼻、「味覚」と「嗅覚」ですね。
このあたりが他の感覚器と少し違うところです。
例えば、音を感じる「耳」。
人間が不快だと感じる音声があったとしても、その音波自体が人体に有害なものであるということではないでしょう。
目で見るものも同様で、人を視覚的に喜ばせるものがあったとしても、そこから目に伝わる光線の刺激自体が、人体に有益なものだとは言えないと思います。
これらは物質的なものが関係しない、感覚だけの問題です。
栄養成分として人間が最も必要としているものは、所謂「三大栄養素」です。
「炭水化物」「タンパク質」「脂質」ですね。
「炭水化物」には「食物繊維」も含まれますが、それを除けば「糖質」と呼ばれます。
これらは、つまり糖ですので「甘さ」につながるものです。
人間が甘いものを美味しいと感じるのは、そこに摂取すべき対象である糖質が含まれていることを意味しているからです。
「タンパク質」も同様です。
タンパク質自体には味はありませんが、ある程度分解された状態の「ペプチド」または「アミノ酸」になると、それを人間は美味しいと感じます。
所謂「うまみ」ですね。
ペプチドやアミノ酸の味を好ましいと感じるのは、そこにその化合物としてのタンパク質の存在を予想することができ、それが摂取すべき対象であるからだと思います。
「脂質」、つまり油脂の味は、なかなか言葉では表現しづらですが、やはり油の味というのは魅力的です。
例えば、ノンオイルのポテトチップスより、油で揚げたポテトチップスの方を、多くの方は美味しいと感じるでしょう。
魚であっても、適度に脂が乗っているものを美味しいと感じるのが普通です。
日本の伝統食は、世界的に見ても油脂の量が非常に少ない特殊な食事だと言えますが、外国の食事は油脂の味に大きく依存したものが多いものです。
バターやオリーブオイル、中華料理なども油を多用しますね。
これについても、油脂が人間の体に不可欠な栄養成分であるからだと思います。
つまり、基本的には、人間は体に取り入れるべきものを「美味しい」と感じ、体に取り入れるべきでないものを「まずい」と感じているはずです。
「基本的に」と書きましたが、当然例外もあります。
例えば、たばこを吸う方はたばこを美味しいと感じているわけですが、それが人間にとって有益な成分だとは思えません。
また、過去の記憶や習慣など、後天的な要素も関係してきますので、すべてがそれに当てはまるわけではないですが、味覚とは体に必要なものと不要なものを見分けるセンサーなのでしょう。
このような仕組みによって、「甘さ」「うまみ」「油脂」に人間は強い欲求を感じるわけです。
それゆえに、ある意味中毒性があり、過剰摂取が起こりやすくなります。
炭水化物や脂質の過剰摂取は、肥満につながり健康を害することは誰もが知るところです。
是非気を付けたいものです。
アミノ酸の過剰摂取にどのような悪影響があるのか現段階では、よくわかりませんが、これにも弊害があるのかも知れません。
その一方で、このような原始的でシンプルな味覚の欲求より、もう少しステップアップした味覚も存在しているように思います。
このような美味しさを理解できるかどうかでも、健康を保てるかどうかが変わって来ます。
所謂「滋味」でしょうか。
例えば、三大栄養素に「ビタミン」と「ミネラル」を加えれば、「五大栄養素」と呼ばれますが、これらの味覚を説明するのは簡単ではありません。
三大栄養素と違って、人間が必ずしもビタミンやミネラルを美味しいと感じるかどうかは疑わしいものです。
それゆえにこれらの微量栄養素への味覚の欲求が弱く、摂取不足につながりやすいのではないかと考えています。
例えば、精製された甘いだけの白砂糖と、ビタミンやミネラルを含む黒砂糖を比較して、前者を美味しいと感じることは普通に起こりえることです。
例えば、ただ単にあぶらが乗っているだけの養殖魚を美味しいと感じて天然の魚の良さが理解できなかったり、うまみ調味料まみれのものを美味しいと感じたり、糖度が高いだけで味がスカスカの野菜や果物を美味しいと感じるとしたら。
これらは、単純な味覚しか理解できない場合の例でしょう。
所謂『滋味』を感じられるかどうかには、「素養」が必要なのだと思います。
もともと才能に恵まれる人もいるかも知れませんが、基本的には経験によってその感覚が磨かれていくのだと思います。
その素養を磨く場こそ「食生活」です。
長い世代の中で、健康を保つための風土に合った伝統食文化が培われてきたとして、それに食習慣として触れ続けることが、感覚を磨くことになるのだと思います。
「食育」という言葉がありますが、「食の教育」という意味でしょうか。
本来、その感覚を養う教育の場こそが日々の家庭での食生活であったはずですが、それが不幸にして機能していない場が多いからこそ、「食育」などとして取り組む必要が生まれてきたのだと思います。
これは、前述した耳を喜ばせる音楽や、視覚を喜ばせる美術に近いものがあるのかも知れません。
乱れた食生活が続くということは、本来獲得しておくべき正常な感覚が養われないという意味で、非常に危険なものを含んでいるように思います。
人間は、誰であってもおいしいと感じるものがあります。
また味覚を正しく感じる能力に優劣をつけることは容易ではありません。
それ故に、自身の感覚が狂っていること、より発達した感覚が存在していることを認められない場合もあると思います。
私は、優れた音楽を評価する能力のある人とそうでない人がいるように、すぐれた食品の価値を正しく判断できる人と、そうでない人がいるのだと考えています。
それは文字通り、良い食生活によって磨かれた「素養」なのだと思います。
次回の投稿では、人間の強い欲求である味覚に正面から向き合わないことで生まれる危険な事例について書く予定です。