2002年の事であったようですが、大学の研究者と、日本料理アカデミーという料理人さんの集まりが、昆布だしの理想の引き方について研究されました。
その研究の結果、昆布を60℃の湯の中で一時間煮出した場合、溶出したグルタミン酸量が最大になるというデータを得たようです。
以後、この方法が昆布のだしの取り方の理想として語られることが多くなりました。
その当時から、既に20年近くの歳月が流れていますから、御存知の方も非常に多くなっています。
本日の投稿は、「この研究結果にどう向き合うか」というテーマです。
決して悪い方法では無いですし、実際に美味しいダシが取れるのですが、懸念される事柄も内包しています。
以下の4段落に分けて、順にご説明したいと思います。
①プロの料理人さん、厨房での実際
②グルタミン酸だけを評価軸に据えることの問題点
③昆布や、伝統的な日本の出しの真の価値を見誤らないか
④家庭料理への悪影響の懸念
まず、
①プロの料理人さん、厨房での実際
60℃で一時間の話は、なにしろ有名ですから、よほど不勉強な人でなければ料理人さんは皆ご存知です。
ですので、この方法を採用される方も非常に多いですが、その一方で、皆が採用しているのかと問われれば、答えは「否」です。
「60℃で一時間」の話を知っていても、違う方法を取られる方が多く存在するのです。
一晩昆布を水に漬けてから加熱する方もあれば、完全に水出しだけで対応されるお店もあります。
つまりこれらの方々は、「60℃で一時間の方法を試したけど、イマイチ」と感じたということになります。
グルタミン酸が最大量になっているはずなのに、どうしてそのような感想になるのか。
これこそが食の世界の奥深いところです。
その理由については後述しますが、データからの結論通りに味を認識していない料理人さんが多くおられる現状だけ、まず把握していただければと思います。
②グルタミン酸だけを評価軸に据えることの問題点
「昆布のおいしさの要素の中で、代表的なものはグルタミン酸である」。
これは、その通りでしょう。
しかし、それはあくまでも、代表的なものがグルタミン酸であるだけで、「昆布の味 = グルタミン酸の味」でないのは、ご理解いただけるかと思います。
そもそも、昆布だしを引くことの目的がグルタミン酸の抽出にあるのなら、だしの中のグルタミン酸濃度を高めることなど、造作もないことです。
単純に、使用する昆布の量を増やせば良いのです。
それだけで、だしの濃度は上がり、つまりグルタミン酸濃度も上がります。
であるなら、品質の良くない、味が弱い昆布であったとしても、量さえたくさん使えば問題ないということになりませんでしょうか。
しかし、そんな簡単な話ではないのは、一流の料理人さんや美味しいものずきの方が、高価であっても良質な昆布を求められることを考えれば分かるはずです。
これは、グルタミン酸以外の成分が関係しています。
昆布は自然の産物ですから、そこに含まれる成分の全てが人間の味覚に好ましいものであるという都合の良い話はないでしょう。
例えば、「苦み」「渋味」「酸味」など、昆布だしとして求められていない「マイナスの要素」も、いくらかは存在しているはずです。
当たり前ですが「プラスの要素は多いが、マイナスの要素が少ない」ものが良いわけです。
前述のように、マイナスの要素には「苦み」「渋味」「酸味」など様々あるのに、プラスの要素にはグルタミン酸だけが関係している、そんなはずは無いでしょう。
その他、様々な成分が味覚に影響を及ぼしていることは、成分分析などせずとも直感的にご理解いただけるかと思います。
つまり、『60℃で1時間』は、グルタミン酸以外の、他の多くの要素について一切考慮されていないところが大きな問題点だと言えます。
日本では、他の食品の分野でも、短絡的な味の評価軸が設定されてしまうことが多々あることを残念に思います。
例えば、糖度に偏重して果物の品質を測る現状。
甘いこと自体は決して悪いことではありませんが、そんなに甘さばかりが大切なら、砂糖でもかけて食べれば済む話ですね。
③昆布や伝統的な日本の出しの真の価値を見誤らないか
②に関係する話ではありますが、私共では「うまみ」という言葉が独り歩きして賛美される傾向にも疑問を感じています。
それは、所謂「うまみ調味料」と伝統的なだしが混同されることを危惧するからです。
そもそも、昆布だしを使う目的がグルタミン酸であるのなら、現代では昆布など特に必要ないはずです。
古い時代であれば、天然の素材から抽出するしかなかったかもしれませんが、今ではグルタミン酸の粉末が安値で売られているわけですから、そちらを使った方が簡便で低コストだと言うことになります。
鰹節とて同様です。
鰹節のだしを使う目的がイノシン酸の抽出であるのなら、そんなもの使わずともイノシン酸の粉末を買えば良いのです。
これこそが、キーポイントです。
「昆布と鰹節の合わせだし」と「グルタミン酸とイノシン酸の混合溶液」。
この両者の味の違いを生んでいるものは何かということです。
「昆布のおいしさの成分はグルタミン酸だ!」と誰かが言うのなら、それは趣旨としては昆布を賛美して下さっている場合が多いと思います。
そうだとしても、私には「そんな認識であるならば、グルタミン酸の粉末があるんだから昆布など不必要なのでは?」とも感じてしまうのです。
繰り返しになりますが、
「昆布のおいしさの要素の中で、代表的なものはグルタミン酸である」
なら正しいのですが、
「他の成分も大事だよ!」
と声を大にして言いたいのです。
では、その「他の成分」とは何なのか、ということになるのですが、残念ながら研究があまり進んでいないわけです。
旧東京帝国大学の池田菊苗氏が、昆布の味の重要成分がグルタミン酸であることを突き止めたのは、1907年のことです。
いい加減、100年以上前の話から、次のステップに進むべきだと思います。
こんな背景があって、「60℃で一時間」がグルタミン酸量のみに立脚していることを、昆布の真の価値を捉え損ねていると思うわけです。
④家庭料理への悪影響
「60℃で一時間説」。
こういった類の話は、往々にして過大に伝わります。
その結果、もし家庭の主婦の方々が「昆布は60℃で一時間煮出さないといけないもの」と認識されたとしたら、どうでしょうか。
台所で、昆布の入った鍋を60℃で一時間維持することを考えてみて下さい。
普通の方は、「なんだか難しくて面倒くさそうだなぁ」となりませんでしょうか。
少なくとも、毎日の食事の支度に気軽に取り入れられる方法で無さそうなのは明らかでしょう。
家庭料理と料理屋さんの料理は、別物です。
別の価値を持っていますから、優劣をつけられるものではありません。
昔と大きく様変わりし、今ではご家庭で常時だしを引く方は、かなりの少数派になってしまいました。
これは、「伝統食文化の衰退」以外の何物でもありません。
家庭料理が乱れることによる問題は、多々あるでしょう。
「食育」なんて言葉は、昔は無かったのですから。
グルタミン酸量の取るに足らない微妙な差を追い求めるのでなく、日常的に自然の産物からだしを取る人を増やすことの方が、よほど意義深いはずです。
プロの料理人さんはともかく、家庭の主婦に小難しいことを説明して、だし取りのハードルを上げないで欲しい。
私が最も危惧しているのは、この点です。
まとめ
「60℃で一時間」は決して悪い方法ではありません。
この方法がお好みに合う方は、取り入れていただけたらと思います。
しかし、絶対的な正解だとは決して言えません。
前回投稿でもご説明した通り、昆布は水に漬けておくだけでも十分にダシが出ます。
実際に、他の団体の調査で、「60℃一時間」より「水出し」で高い分析値が出ている事例もネット上に発見しました。
お伝えしたいのは、「もっと気楽に自由に取り組んでいただきたい」ということです。
求める味の方向性も個人のお好みや料理によって変わるでしょう。
何℃で何分とか、そういったことでなく「お好みに合う取り入れやすい方法」、それこそが「真の正解」なのだと思います。
水に漬けておくだけでも昆布ダシが出る仕組みについてご説明した前回投稿も、ご興味あればご一読下さい。↓