この「こんぶ土居店主のブログ」では、過去にある料理人さんについて触れています。
大阪府島本町にて、自ら山に入って獲物を捕らえてジビエ料理を出す、リストランテコンテの宮井一郎さん(以下、一郎さん)です。
つい先日、久しぶりに一郎さんのお店へ伺う機会がありまして。
大阪万博のランドスケープデザインを統括するようなすごい方々の集まりに、ひょんなきっかけで同席させていただいたような流れです。
ほとんどの方とは初対面だったのですが、食に非常に関心の高い方ばかりで、一郎さんの料理に皆さん本当に喜んでおられました。
あまりに喜んで下さるものですから、ジビエの美味しさとは何であるかと改めて考えてしまいまして。
本日の投稿の趣旨は、タイトルの通り「味を成分で語ること」の問題点についてです。
近年では食に関する分析も進んで来ていますから、味を成分で表現することも増えています。
例えば昆布で言えば、とにかくグルタミン酸ばかりに焦点が当たりがちなわけですが、その問題提起の内容です。
主題について書いた後、後半では改めて一郎さんのお仕事の価値についても書いておきます。
まず結論から申しますと、ジビエの味わいを考える中で強く感じたのは、『味を言語化など到底できそうもない』ということです。
理由は簡単なことで、「味覚・嗅覚」と、「それを表現するために使う語彙」を比べると、圧倒的に前者の方が複雑だからです。
私たちの舌と鼻は、本当に様々な感覚を持ち合わせています。
特に嗅覚については、無限のバリエーションを感知しているように思います。
対して、その複雑な味覚と嗅覚を抽象化して表現するには、「言葉」の機能があまりに貧弱だと思われませんでしょうか。
テレビのグルメリポーターが、何かの肉を食べて「やわらか~い!」「ジューシー!!」などと判で押したように言っているのを見て、失礼ながら「アホか!」と思っている私ですが、見方によっては、言葉の機能が貧弱であるが故に「そんな風にしか表現できない」ということなのかも知れません。
一郎さんのジビエと、ブロイラーの鶏肉を比較すれば、明らかに後者の方が「やわらかくて」「ジューシー」でしょう。(言い換えるなら肉質がグニャグニャで水っぽい)
食べ物の味とは、そんな浅い話ではないはずですが、言語化しろと言われれば非常に難しいことはご理解いただけるかと思います。
陳腐で単純な表現が世に溢れることで人々がそれに慣らされ、無意識に単純化された価値観で物を見てしまう傾向につながったりしないかと感じています。
味覚を言語化するのに最も長けているのは、ソムリエさん達でしょうか。
様々な言語表現を駆使してワインの味わいを表現されます。
しかし、「果実味が豊か」だとか、「重厚でエレガント」だとか、「スパイスや花の香り」に例えたり、「ミネラル感」がどうとか。
もちろん、何も表現しないよりは良いですが、こんな言葉をいくら並べたところで、ワインの味を的確に表現することなどできないのです。
過去に私はこのブログで、茨城県つくば市のイタリアワインのインポーター「ヴィナイオータ」さんについて書いています。
一郎さんのお店にも、たくさんのヴィナイオータのナチュラルワインが揃えられていますが、どれも本当に豊かな味わいで素晴らしいです。
しかし、それを言語化など決してできないと感じます。
言語化とは「抽象化」ですから、言い換えれば「型にはめる」ということに繋がってくるかも知れません。
言語化によって規定された単純な評価軸に従って優劣が判定され、多様性を失い、物事は浅くなっていくように思います。
かつて、ヴィナイオータさんのウェブサイトには、以下のような文章が掲載されていました。
自然に対して畏怖の念を抱いているのなら、自然環境に最大限の敬意を払った農業を心がけるでしょうし、ヴィンテージやテロワールなど、その年、その場所、その土壌の“自然”が余すことなく反映されたワインを理想とするのなら、醸造時に過剰な介入はしないでしょう。
不思議なことに、このように造り手が“我”を捨てて、その時、その瞬間の良心に従ってできたプロダクトには、唯一無二の個性が付与されます。
年の個性、土地の個性、品種の個性、そしてヒトの個性…
単純に言語化された評価軸を設定すると、その型にはめるため「醸造時に過剰な介入」にもつながるでしょう。
それは正に、「造り手の“我”」そのものであって、その結果「良心に従ってできたプロダクトの唯一無二の個性」が失われていくのだと思います。
同じことを昆布の世界で言えば、「うま味」や「グルタミン酸」がそれに当たります。
「うま味」「UMAMI」という言葉が世界中で流行り言葉のように氾濫し、昆布の味がグルタミン酸で鰹節がイノシン酸で、その相乗効果がどうとか。
今だに、そういった下らない情報発信をする人がいかに多いことか。
こんな話が、権威ある方々からも平気で出てくるところが、本当に嘆かわしいです。
「うま味」という言葉が無かった時代やグルタミン酸が発見される前から、日本人は昆布を利用し、素晴らしい食文化を築いてきたわけです。
言葉が無くとも、何も問題なかったはずです。
「うまみ」や「グルタミン酸」といった単純化の極みのような表現がされ、またそれは「うまみ調味料」によって代替可能な要素であるわけですから、昆布の価値を表現するのには弊害が非常に大きいと思います。
「うまみ」という言葉の歴史については過去投稿でご説明しています。
味を成分で表現することの問題点、弊害をご理解いただけましたでしょうか。
分かったつもりで味覚について表現していることは実は断片で浅く、理解による「効果」より、全体像を見失う「弊害」の方が大きかったりするのかも知れませんよ。
今後も私共では、うまみの供給源だとの矮小化された見方ではなく、昆布の真の価値を伝えていきたいと考えております。
そのための、「うまみ」という言葉の一切不使用の方針です。
それでは冒頭で書きました通り、ここから後は一郎さんのお店で改めて感じたことを書いておきます。
(前半おわり)
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食べ物を扱う私の仕事ですし語弊のある言い方になりますが、私はもう「単に、おいしさを追求すること」に強い関心がありません。
これだけ食に関する社会課題が満載の今ですから、所謂「美食」に明け暮れているような人を見ると、非常に軽薄な行為であるように感じてしまうのです。
「おいしいものを食べる喜び」は全人類共通のものであって、とても尊いものですが、それが地に足ついたものであって、「軽薄」にならないために必要な要素とは何でしょうか。
私が一郎さんの料理を魅力的だと感じる理由は、「軽薄な美食」の対極にあるからだと思います。
それは、「意義を伴ったおいしさ」でしょうか。
様々な魅力があるのですが、ざっと挙げますと。
『一次生産者としての側面』、『環境保全』、『究極のサステナビリティ』、『地域独自性』、『いのちと向き合う』、『学びの場』、『料理人の真の役割』といったことです。
『一次生産者としての側面』は、自ら山に入り獲物を仕留めて料理されるわけですから、食材の一次生産者でもあるわけです。
日本の一次生産者人口が減り続ける今ですから、その意義は大きいでしょう。
『環境保全』については、人が山に入らなくなったことで、人間と野生動物のテリトリーの緩衝地帯としての里山の機能が失われ、様々な問題が発生しています。
その個体数を適切にするための捕獲は、獣害対策として行政も補助金を出して対策するほど、大切な社会貢献です。
『究極のサステナビリティ』は、現代の食事情を考えれば分かります。
農業をするにしても、野菜を栽培する際の種子は9割方を輸入に依存し、化学肥料に至っては自給率がほぼゼロです。
こういったことを考えると、ただでさえ貧弱な日本の農業生産能力は、持続可能性の観点から大きな問題を抱えているわけです。
一方、山に入って増えすぎた獲物を捕らえることは自然の恵みを適切に得ていることであると同時に、農村の暮らしを守る副次的効果までついてくるわけで、本当に素晴らしいです。
『地域独自性』については、一郎さんが山で得るものは動物だけではなく、山菜やハーブ、キノコ、果実など、植物性のものも含みます。
そういった素材でつくられる料理は、必然的にその土地の個性を反映することになりますから、他の地域には無い独自性を生むことになり、それは正に「地域独自の食」と呼ぶべきものでしょう。
『いのちと向き合う』については、現代の私たちは食の「現場」から遠ざかってしまっています。
外食も加工食品も充実している今ですから、一切料理せずとも食べていくことはできます。
しかし、それ故に現場への理解が低くなってしまうと思うのです。
山に入って獲物を仕留め精肉する作業は、口で言うほど生易しいものではない、ある種凄惨な仕事でしょう。
動物でも植物でも、他の命を喰らうことでのみ生き続けることができる私たち。
そして、その現場に常に居る一郎さん。
言うだけでなく、厳しさを乗り越えた人のみが持つ説得力があるように思います。
『学びの場』については、お店で出されるジビエは、捕獲後に精肉する必要があるわけですが、レストラン横にそのスペースがあるのです。
ガラス張りになっていて、タイミングが合えば店内から見ることもできます。
目を背ける方もあるかとは思いますが、私たちが肉を食べるということは「こういうこと」であるという理解は少なくとも得ているべきだと思うのです。
『料理人の真の役割』
例えば、鹿のロース肉があったとしましょう。
こういった食材であれば、素人でも簡単に調理できるでしょう。
しかし普通の人は、見慣れない内臓肉を渡されても、どう調理していいか分からないものです。
そこでプロの出番。
一郎さんのお店では、ジビエの内臓肉の料理が常に出てきます。
頭から尻尾まで、肉だけでなく内臓、骨、皮、血までも使って。
素人では扱えないようなものを無駄なく活用して素晴らしい料理に仕上げることこそが、プロの料理人の技術が本当に活きる場だと思うのです。
値の張る高級食材ばかりを出す飲食店もあるかと思いますが、そんなものは素人が扱っても美味しい料理になります。
また、害獣駆除の社会的要請があっても、捕獲自体が目的になってしいまい、廃棄されたりすることも少なくないようです。
なんとももったいないことですが、それは「美味しく食べる」ための方法への無理解が生むことであって、料理人であるからこそ捕獲方法やその後の処理などを適切にし、価値を最大化することにもつながると思うのです。
料理人さんが社会に向けて貢献する価値は、まずは「おいしいものを提供すること」でしょう。
しかし、これだけ食に関する社会課題が多い今ですから、それを超えた役割を果たす方は、本当に素晴らしいと思います。
(了)